「〈沈黙〉の自伝的民族誌」石原真衣 読み始めた。

p25「生のミュージアム化」。このミュージアムは美術館も含むだろう。キュレーションはこのミュージアム化に抗さなければならない。

 

 

「政治的ロマン主義カール・シュミット 読み始めた。

図書館の新刊コーナーに橋川文三生誕100年を記念する本が置いてあって、巻頭の編者の対談で村上春樹アンダーグラウンド」への言及があった

気になって、別の日に別の図書館で「アンダーグラウンド」を読んだ(借りると重いので)。冒頭で証言者が限られていること、インフォームドコンセント、証言されなかった当事者への配慮つまりたぶん沈黙に関する記述があった。たぶん当事者は当事者という言葉にも括られない。ミュージアム化に抗する。キュレーションの是非はおいて、こうして「アンダーグラウンド」として編む視座は暴力を内包することは自覚のうえでなされている。たぶんこの視座は加害者の視座を想定し辿るみちのりを準備するだろう。加害者はアンダーグラウンドの敵をそのようにして想定して括ったはずだ。

読者も暴力に加担する。居心地の悪さを感じる。(すべてを読む時間はなかったけれど)いくつかの証言をピックアップして読むと、印象に残るのは事件の証言の背後にある都会の生活者の一片。無垢で露わな。各人ともその生活の矜持のようなものを知らず発しているように感じてしまう(そうして当事者の当事者性、証言者の証言者性とでもいうべき単独性を発しているように)。それを読もうとしてしまう。

そうして善と悪との境をかくにんしようと探してしまうのだろうか。でもこれは境だろうか。原因と結果と時系列を都合よく混同しているだけではないのか。そのように見えるだけではないのか。集合を見るのは見る側だけの都合だ。

アンダーグラウンドでは、その日、その時、様々な事情でその様々な行先へ向かう生が交差していた。

こうしてかろうじてかくにんされることは、歴史家のまなざしを加害者は先取りしているということ、だろうか。いや、これはたぶんちがう。というか、それだけでなく。

地下に掘られた交通網の複雑なダイアグラムを組み合わせて行き交う人々。時間と路線の組み合わせ。透視するように鳥瞰すると地下へ階段を降りる人、改札をくぐる人、集合し分岐する人の流れ、やってきた車両に詰め込まれ吐き出される人々、エスカレータを上り、〇番出口への階段を上る人々、そのような人々の流れが見えてきそうだ。A地点からB地点へ、C地点を経由して。けれど、このインタビューによって、この視点からは流れの中の一点にしか見えない個人の、その個人からしか見えない景色が明らかにされる。埋め込まれたまなざしが開かれる。やっぱりこれは小説家にしかできないことだった。 

 

   

 

 

「ヌシ」伊藤 龍平

p33-35-----------------------------------------------------------------------

朝廷に恭順せず、征伐の対象になった古代の地方豪族たちは「土蜘蛛」と呼ばれていた。この「土蜘蛛」という語が独り歩きし、時代が下るにつれて妖怪化したことはよく知られている。夜刀神も土蜘蛛=地方豪族の同類のように見えるが、おそらく、そうではあるまい。なぜならば、麻多智が切り拓く以前のこの土地は、人間の住める場所ではなかったからだ。説話では「夜刀」という字が当てられているが「ヤツ」は「谷地」、すなわち湿地を指す語である。現在でも行方市利根川霞ケ浦などを擁し、近辺には湿地が多く、往時が偲ばれる。夜刀神との争いは、人が湿地を水田に造成するところから始まった。

神と人の領域を杖立によって区切るところが象徴的で、赤坂憲雄は、境界線の観点からこの説話を論じ、「蛇の姿態をした夜刀=谷の神のイメージは、たいへん原始的な自然の霊威の形象化のように思われる」と述べている。また、小島瓔禮は、種まきや田植えの際に水田に杖を立てる「地もらいの作法」(山野の神霊から土地を譲り受ける儀礼)との関連を見出し、「農耕といい建築といい、自然の中から、人間が利用する空間を占有することである」と述べている。

一方、小松和彦は、柳田國男の妖怪論を検証する作業の過程で、この説話を扱っている。小松は夜刀神を「〈神〉と〈妖怪〉の間を揺れ動いている」存在と位置づける。そして、こんにちの人が思い描くところの「妖怪」として現れた夜刀神が、最初から「神」と呼ばれていること、麻多智によって神として祀られているいることに注目し、零落した神を妖怪だとする柳田説のアンチテーゼとしている。

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「空と海」アラン・コルバン

裏表紙--------------------------------------------------------------------------------

■18~19世紀に天候への関心が高まり、天候と気分が並行する「気象的自我」が形成される。穀物騒動を察知するため、政府にとり各地の気象は一大事だった。啓蒙主義は、大気現象を、神や悪魔の介入ではなく観察・測定にゆだねたが、19世紀まで信仰は空の解釈を規定した。19世紀半ば、聖母マリアは絶えず出現し、供述は300以上だが、カトリック教会が認めたのはうち3件のみである。

■登山の実践は、悪魔の住処とされた山岳を測定の対象とし、気球の誕生は、大空の感覚的経験を根底から変えた。こうして「空」は拡大し、各地の気象は地球規模に広がる遠方の事象に左右されるとされた。

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p16-17----------------------------------------------------------------------------------

同じ時期に、カトリックによる反宗教改革の範囲内で、天使を評価する動きが力強く復興したことをアルフォンスデュプロンが力説した。祈りを媒介し、悪魔の群れと闘うあの天使たちに満たされた教会の装飾と描かれた空が、そのことを明瞭に示している。ユベール・ダミッシュは『雲の理論』の中で、大気空間あるいはむしろ空と天国の境界線を描くバロック期の窮りょう(ウ冠に隆)を分析した。実際その窮りょう(ウ冠に隆)は、雲の中にいる三位一体の人物たちを取り囲む天使たちが住まう空に天国が偏在しているのだ、と鑑者に信じ込ませる。儀式の度ごとに繰り返され、見つめられるこの光景が、空を眺め、読み解くしかたに影響をあたえたことは十分に考えられる。

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アヌーシュカ・ヴァザク「気象的なものと主観的なものが束の間並行した」(「悪天候の中でこそ主体が誕生した」は恐らく行き過ぎだが)

ただし、このプロセスが、世界を描く絵画表象に気象学が侵入してきたのと同時期だということ・・・

p36-37------------------------------------------------------------------------

この図式は自我の不安定とその不均衡という意識、そしてまた捉えがたいものを定着させたいという欲望に依拠している。空気遠近法の成功が示唆しているように、気象的アイデンティティー、あるいはそのほうが良ければ気象的自我の形成は、風景画が完成の近代的な形式として、また空間との関係における主体の場として出現したのと同時期のことなのだ。限界の不確かさを露呈し、ありえるものとありえないものの境界線を絶えず明示するという点で、気象的なものは近代性と一致する。

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見かえし---------------------------------------------------------------------

「天候とまったく同じように、われわれの存在は時間の継起に従う。時間的なものと気象的なものの間に等価性が成り立つ。雲は空模様と同時に精神状態を語り、その逆もまたしかりである。ジャン・ジャック・ルソーは、精神状態と天候を並行的に観察するという計画をはっきりと提示していた。

日記の実践がそれを例証してくれる。日々と季節の経過によって規定される日記の形式それ自体、天候の記述を必要とする。

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p40---------------------------------------------------------------------------------

とりわけ、天候の異変とそれが自我に及ぼす影響について詳しく述べるのは、歴史の舞台から隔たった、あるいは少なくともその周縁に位置する私的領域の境界を定めることに繋がる。それは内部世界を自分のために樹立することであり、時間を世俗化することにほかならない。私が今論じている時代の最中にフランス革命が勃発し、革命暦つまり気象的なものを歴史の中に組み込もうとする試みが採用されたのは、けっして偶然ではない。

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