むすんでひらいて

てをうってむすんで

 

かたちをむすんではとく

あやとりするみたいに記号はきらめく

(「きらめく拍手の音」イギル・ボラ)

(手話を、きらめく記号としてまなざす権利がわたしにあるだろうか。もちろん手話は当事者にとっては真摯な生活の手段であり、このまなざしは観光客的な、傍観者的な、なにも意味のない言いぐさでしかないのかもしれない。でも、言い訳になるかもしれないけれど、幼さを未熟さとは思わないから。記号の前ですべては幼い。いないいない ばあ)

シェムリアップから少し離れた遺跡群を結ぶ赤土の道で聴いた、ともに歩くひとたちの、方々からの訪問客の、さまざまな言語の抑揚の坩堝はこれまで感じたことのないようなここちよさだった。) 

 

あやとりのほうき

あやとりのほし

あやとりのつりばし

あやとりのめがね

 

とかれたほうきばらばらに

こわれたほし

おちたつりばし

われめがね

 

壊れたメガネで見る

壊れた民族 壊れた人種

 

暗い窓ガラスに映るのは

壊れたメガネをかけた透明人間

写真に写る影は

壊れたメガネをかけたUMA

壊れたメガネをかけた壊れたUMA

壊れた透明人間 

飛ぶメガネ

壊れた飛ぶメガネ

壊れたメガネの欠片、壊れたUMAの欠片、壊れた透明人間の欠片、壊れた飛ぶメガネの欠片 

 

透明は

透明という記号は

極限で不透明を孕む。色を孕む。

可視への期待を孕む。

 

まなざしをくべて火をつける

まなざしに火を放つ

炎へ放り込んだ目玉

灰の目覚め

篩う

閉じて砂金となるまなざし 

風となって荒野を虚ろにうつろうまなざし

もうほとんど風景そのもの

獣の腹のような原

じべた

まなざし

ねむり

けむり

おむすび

 

まなざしの化石、石油 

 

がいねんをじったいかすること

きごうをじったいかすること

そのとき同時にじったいをじったいかしている。

これをあやまりとしてせめてもよいかもしれない。 

じったいはひとつのじったいのあつまるほしょうするちへいをもとめる

おそろしいちから

いっぽうで

とうじしゃはてんでばらばらのちへいでかろうじて記号をきらめかせる

てんでばらばらのちへいで

こうやで

 

もうよる遅い。取り急ぎで記す。 

「記号化される先住民/女性/子ども」石原 真衣 編

読了?

いや、もういちど読む。 

 

 

痛みと感情

それを介する身体

わたし

 

わたしはなにかをまちがって

いまもだれかをきずつけているのだろうか

 

アンチ・スペクタクルももう一度読む。

 

見る

見る側にいるという特権

見られる側でしかない

見ることたりえない立場

見ると記号は絡まりあっている

 

まなざしたりえないまなざし

口ごもる

言葉を失った言葉のようにして

沈黙するまなざし

ただ光差す瞳

 

(せめてわたしだけでもわたし自身の記号化とたたかい

徹底的に自らを差異化していかなければ

わたしとしての自然

異なるトーテムどうしの儀式でもって自身のトーテムの食べ物を口にする/しない

もし、入れ替わるとき

疚しさも入れ替わるのであれば救われるのだけれど

土台が入れ替わる

どの記号にも土台があるはずで

まずはその土台が自然であること

自然であることとは入れ替わりに向けて開かれていること

開かれているとは

風のようになるということ

というか風や土や獣や星やらそのものになるということ

そのものになってつらなるということ

徴づけられるのは聖なる場所だった

そこを辿る歌をソングラインと名付けるまなざしもあった  

 

いまもわたしはわたしたちはわたしのわたしたちの記号の環世界を壊して

徴を辿る

ことができるだろうか)

 

上記( )はいくぶんか間違っている。

外延を定めることがなければ

トーテムに連なることはできない。

差異の区切りが位置づかないから。

たぶん靴下を裏返す方法が必要なのだろう。

外延がなければ靴下にならない。

たぶんこれはここから進んで、

内在することと同時に進行する。

虚ろなな昏さから眩い明るさまでの距離。

距離なき距離。場なき場。

 

外延のもんだいとは別にして、徴はある。

靴下を裏返すようにして外延を問い続けることと

徴に気づくこと。

差異発生の場は、いま、ここ、わたしの場と臨界する。

ソングラインは可能である。

 

新大陸へ向けて外延を壊し航海を始めた。

この自意識に集結する我々。

外延するためにメガネをかけて、記号を産出する。

外延は記号の条件。記号は外延の保証。

外延とは「我々」のことだし、「我々」は記号を吐き出す機械。    

  

「記号化される先住民/女性/子ども」石原 真衣 編

を読んでジュネとツエランを思った。

あとペソア

 

テッサ・モーリス・スズキ「辺境から眺める」にペソアが引かれていて

久しぶりに詩集を開いた。

”神々は特にそれを眺めている。なぜそれがそこに留まっているのかわからないのだ”

これはアルヴァロ・デ・カンポス「メモ」末尾