(昨日書いて下書きにしたもの)

チェックアウトの時間いっぱいまで

4つのワイドショーをザッピングして過ごした。今日は日曜だった。

ひとつは先週のスポーツの話題を取り上げて、あっぱれとか喝とか言っている。大リーグで、一塁ランナーが三塁に滑り込んだらユニフォームのポケットからスマホぽろりと滑り落ちた。「喝」。久しぶりに見た。

番組の終わりに終戦記念日のことが取り上げられて、若者への街頭インタビューの模様が放映された。続いて居並んだコメンテーターがひとことずつ話した。

ぼんやりとベッドのうえで見ていたいい加減な鑑賞者の解釈のバイアスはあるけれど、以下のようなことだった。

ひとり目は、個人の生活の充実を優先するような風潮があるが、そこから戦争を考えようとしようとするのではなく、個人としても国としても社会(国際社会)の一員としてどのように責任を果たすことができるかという観点を重視していくべきというようなことだったと思う。

次の人は、戦争(武力行使)ではなく、(自衛のための抑止力を活用した)外交こそがリアリズムだというようなことを言った。

3人目のひとは、今も世界のどこかで戦争が起きて人々が苦しんでいる。戦争をするということ、戦争が起こるということ、自身が銃を持って人を撃つこと、また自身が家族が死に晒されるという悲惨をよく想像するように。今起きていることは他人事ではないというようなことだった。

最後の一人は暴力は言論の敗北であり、メディアの力が試されているという話だった。

他の番組は、ある宗教団体と政権との癒着にかかる一連の話題で、司会者が、メディアはもっと葛藤すべき、出来事が起きてから初めてのようにして騒ぎ立てるのではなく、メディアの責任を常に省みて検証しながら(その姿も見せながら)報道すべきというようなことを言っていた。

自分探しという言葉は毀誉褒貶ある言葉だけど、たぶん、メディアはずっとこの自分探しを続けるべきだろう。自分探しを終わらせてはだめだろう。

別の番組では、長良川の花火大会を地元出身のDJが取材していた。花火大会は、戦後復興、震災復興などその時々のいろいろな思いが込められ続いてきた。3年ぶりの開催とのこと。取材者の高揚を伝える言葉に引き付けられる。花火の映像もさることながら、種々のエピソードに感情移入してテレビの前でぽろぽろ涙が出た。そういえば、昨日乗っていた電車の停車駅で急に花火の音がして、子どもが怯えていた。どうやら戦争と思ったらしい。

別の番組では、唐辛子好きが高じて家庭菜園でいろいろな種類の唐辛子を自ら栽培し、毎日食べている人を取材していた。フルーツみたいに食べられるという唐辛子がスタジオに持ち込まれてみんなで食べたのだけれど、半数ほどがはずれの辛い唐辛子だったようで、幾人かが辛そうにしていた。一口目は辛かったけれど、二口目はそうでもないものもあった。喉が焼けるように辛い。その後、UFOの話題に移った。最近NASAで未確認飛行物体が確認され、議会でも公聴会が開かれたとのこと。専門家よりUFOなるものが初めて目撃されてから今日までの、UFOの歴史とでもいえるような解説があった。初めの目撃者は自家用セスナに乗っていた実業家で、その1週間後くらいに別の場所で米軍より墜落したUFOの残骸を発見したとの情報が出た。けれども米軍の情報はすぐさま取り消された。発見されたそれは気象観測用の気球だったようだ。けれど専門家によると米軍は嘘をついて隠ぺいをしているらしい。発見者の証言によると、発見された薄いアルミホイルのような残骸は触れると皴やゆがみがいっぺんにきれいになるなど形状記憶的な性質を持つもので、当時そのようなものは地球上では未だ発明されていなかった。

未確認であることが実在する。

 

 

例外状態が頻発(結果同時多発に)して創造されることによって、まばらにうっすらと具体的無秩序の地帯(帯域)が漂い出す。最も影響を受けるのは、「わたし」だろう。「わたし」による「わたし」の殲滅戦がはじまる。「わたし」のジェノサイドがはじまり、「わたし」から「わたし」を奪い、奪われ、声を失い、帯域のディアスポラとなって圏外を彷徨う。だれしもがアキレス、だれしもがペンテジレーア、だれしもがヘルマン。

だれしもがハムレット

なのか。