利潤のみを考える。それを生むのは価値だろうか。顧客だろうか。

WWWによって、ヒトの活動は多様化している。消費活動は多様化している。

どこで利潤を稼げるか?利潤はどこで発生するか?発生させるか?

WWWによって、ヒト、モノ、コトの動きを平板化し、交換可能にできる。生産者、販売者、消費者の動き、生産物、販売物、消費物の動き。活動の生態系。

活動は、ヒトの生活とも言えるかもしれない。けれど、生活は、定常的根源的活動から派生はするかもしれないが、その表現や境界は流動的で可塑的だ。また、活動主体についても、ヒトとは限らないかもしれない。モノ、コトの動きが利潤を発生させていると言えるものもあるかもしれない。

 

利潤は3項関係的だ。ヒト、モノ、コトのどの組み合わせでもよい、1者の位置から別の2者の動きがあり、その2者間の格差是正に対し、1者が有益であれば、ポイントが獲得できる望みがある。

 

3者は所与ではない。格差(差異)があってはじめて発生する。差異の発生にはバイアスが必要。

 

この世に存在しているものにはすべてニーズがあり、顧客がいる。世界はすでにニーズで満ちている。個物を見出すには、差異が必要。そのこと自体が利潤を発生しないか?

 

たぶん、すでに、この世のどこかにモナドジー経済学があるだろう。

 

竹林の七賢人は、差異の神話だ。この世のどこかにこのような神話を見つければよい。そうすれば、デッドボールやこぼれ落ちたポップコーンやもの忘れやバグやにわか雨から利潤が産まれるかもしれない。

 

すでに利潤が発生しているところから利潤を考えても始まらない。(利潤の前に収益があって、きっとそちらのほうが難しいのかな。)

イノベーションイノベーションじゃない。

 

花と蜜と蜂の関係を一から創造する。

 

個物を逆に考えると、流れに埋もれる無(へ)の抵抗だ。無でないものは個物を志向し、そのことが世界すべてを色づける。世界というニーズを。

 

 

成長と言われているものは、なにか、限界のないことそれじたいが目的であるようにも思える。成功はなにか、ひとつの嗜好にすぎないようにも思える。

頭のいいひとは、現世で経済活動をしておいて(現世の金融活動ももちろんある)、浮世で金融活動をして利潤を得る。両方をする。ある規模の主体になれば可能になる。動かすタイミングと規模だけの問題。余剰した信用が自動に膨れ上がって残酷な心理、操作されるアレゴリーとなる。積乱雲。

万人が投資をすれば万人が救われるのか。 

 

イノベーションは、花と蜜と蜂の関係を創造しているだろうか。例えに上げて悪いけれどメタバースなどは。スマートはひとつの攻撃なのではないだろうか。これは戦争なのではないだろうか。なにか決定的に限界づけを失敗しているのではないだろうか。たぶん適当に「新自由主義」を批判して済むものではない。それらの根はすべて内在している。わたしたちのエッセンシャルなものの皴に襞にに折りたたまれている。

 

映画「サマーウォーズ」は、数学少年がエッセンシャルワーカーになる(加わる)物語だった。

わたしたちはパルチザンとして、エッセンシャルなものを守らなければならない。わたしたちはわたしたち自身のパルチザンであるし、わたしたち自身のためのエッセンシャルワーカーだ。

 

徹底的に遡行し、底の底まで降りていき、新しく示す最先端で、岬の突端で、生活の素朴のなかで、朝いちばんに、路上で、ひとびとの、わたしの、身体を借りて・・・

また別の物語が必要だ。

 

彼の国の SFは彼女ら自身のエッセンシャルワークだ。彼女らはパルチザンだ。

クライストのような激しさまでをも必要だろうか。