「あなたに安全な人」という小説を読んでいてもうすぐ終わりそう。小説を読むのは久しぶりだと思ったけれど、少し前に「ディア・ライフアリス・マンローと「赤い魚の夫婦」グアダルーペ・ネッテルを途中までだけれど読んでいた(どちらも短編集)。

いくつかの新聞書評で読んでずっとひっかかっていた。装丁画にも魅かれていた。図書館で予約したけれど借り損ねてそのままだったけれどやっぱり気になって再度予約して順番を待った。シュミットのパルチザンの理論も同時に借りたのだけれど、先に帰りの電車で読み始めて帰ってそのまま食事(レトルトカレーにさせてもらった。)を挟んで読み続けてもうすぐ終わりそう。

はじめ、強迫観念じみた限られた独白の応酬で、状況を掴み取りたくてたまらなくなる。目を背けられなくなる。読みながら切迫してくる。困窮しながらも関係していく男女の応酬を読みながら、それこそ読者も安全を求めてやめられなくなる。なぜならたぶん読者も彼らのような疚しさにどこか身に覚えがあるから。そうして日々悶えるようにしているから。そうして安全をなんらかの形で希求するけれど同時にそうした安全を得る権利はない、自分たちに与えられることはないとも信じている。そうして疚しさと住む。

そうした実在するわけのわからない観念的な痛みを裏付けるようにして傷や火傷や膿や痣などのアンフォルメルな状態でもって一瞬状況を溢れさせる。つばめの糞とか。

疚しさは侵入してくる。

安全は衣食住+α。

確かさ。はじめから独白の地の文は妄想の混じりけがあり、確かさは男女の独白の応酬で重複して確認できるもののみだ。けれど終盤、クリーニング店や家の周辺の界隈がひっそりとしてまるで無人の廃村であるかのように現れたとき、一瞬雨月物語のような茫々とした気分が過った。描写されるのは俗的なことばかりなのに、ふっと底が抜けてしまう。けれどその感触こそが「確か」なもののようにも思えてくる。

このままさいごまで物語が安全でいてほしいと祈るようにして読む。

 

さいごの2ページを残すのみだったようで、さっき読了した。

男たちは重なり合って依り代になって消える。

すべて「ついで」のようではある(あった)のだけれど、だれかの行為をなぞるようにして、雪の中、女(男)はついに手を合わせ、お供えを続ける。

この死、これらの死。あの死、あれらの死。

この生、これらの生。あの生、あれらの生。

すべて実在はお供えとして「確か」になる。