酔っているので、かろうじて記せること

 

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●術●戦(17巻の展開)

 

木澤佐登志さんの失われた未来を求めて

議事堂の中のシャーマン

 

 

中井久夫さんの「治療文化論」に確か、普遍症候群、地域症候群、個人症候群について記されたところがあって、かつて読んだ際、ひとつの症例においては普遍も地域も個人もそれぞれ重なり合って同時なはずだなあ。と思っていた。書いてあったことだったかどうかわからないけれど。

パンカジ・ミシュラの「怒り」まだ読んでないけれど、これも同じで、この怒りがどれも同じ「怒り」だと捉えると誤りで、どれもどうしようもなく個別であるはずだ。

本当は、この個別であること。出来事の原石のようなものが分有されるべきで(琵琶法師を介するようにして)・・・。

 

ベンヤミンシュールレアリズムのレポートを帰りの電車で読んでいて。どれもどうしようもなく個別。はらわたリアリズムも。ボイスと星の王子様を重ねたら悪いのか?

前世紀後半を語る新たな技法が必要だ。フルクサス関係者のダイアグラムを大昔に見たけれど、この技法ではボイスの射程を捉えきれないと思う。カルチュラルスタディーズの観点からグリーンバーグを分析したらさぞ面白いだろうなということは、学生時代の自身でも妄想することができたけれど、ボイスの分析は、一筋縄ではいかない。

本当に笑った。コヨーテ。芸術=資本(日本語にすると味気ない。)。

ボイスとグリーンバーグと星の王子様を重ねて語る射程が必要だ。

酔ってるからこんなこと言えるのだけれど。シャーマン被りなんだよなあ。

(議事堂のシャーマンはこちらから見るとラウシェンバーグを彷彿としてしまう。かつてオウムのサティアンが日本の暗い?前衛芸術を彷彿させると言われたように。?。)

 

社会の可塑性を示す。流動(液状)性は前提。 その方法。

空飛ぶ鋼の兵器を操るシャーマン。墜落して壊れた体がフェルトに包まれた脂肪漬けになる。

繭の中の時間。その地ユーラシア。ユーラシア。

厳密には詩ではなかったろう。ボイスが何かを「完成させていなかった」とすると

それは、この経験のことだと思う。繰り返し繰り返しそのことの反復を問う。

この経験を生き続ける。この繭の中で心身が溶けて流動していたそのとき。

各種のモノを見ていると、彫刻を、彫刻の概念を拡張した、のではなく、

既に彫刻それじたいはどのようにでも拡張されていたように思える。もはやヒト(波打ち際の)の概念を超えて。

拡張された可塑性を示す。フェルトは示す。脂肪は示す。

どうしようもない社会の流動性を。

モノたちは、かろうじてのサンプルで、すべて流れ去ったその跡しか示すことができない。

コヨーテと光は示していた。モニュメントとしての杖の形象。流れに棹差す。櫂。

金網の格子。だからすべてはじめから残骸だった。

 

 

 

琵琶法師の方法として分有されようとしているのは、

フェルトに包まる脂肪漬けの私。ぐちゃぐちゃに液状化した私。

繭の中の私。脂肪は身体の代替。フェルトは絶縁体としての媒体。

触れる私が示すところの可塑性によって、触れられたものは顕になる。

 

触れ得ることの可能性。可塑性の成立の条件をこそ問おうとした。

この私もこの私をとりまくものも互いに液状であるとき、

代替としての脂肪と絶縁体としてのフェルト、その絶縁の手触りによって

私と私をとりまくもの同時に顕になる。

 

いないいない いないいない いないいない

ばあ