(利き腕の)右手は、私(目)と行為とを結び

物にたいしては、一方的に操作できているような

今となっては万能感とでもいえそうな感覚

(そこに主体が宿るのかな。習慣の中に。)

があったように思う。

一方で左手だけで生活するようになると

左手は物の導きに大分依存している。

物の導きと、右手の記憶とを、頭の中で再構成して

行為する。

箸を扱うのや、文字を書くのや。

さらに、お菓子の包装を開けるのに口を使ったり、

また片手で行う服の着脱では、頭や肩や腰や全身を

使っている。カーディガンやワイシャツを頭で被って

引っ掛けて、左手の袖を通す。 

習慣を失って、行為の必要に面したとき、身体もまた

行為のブリコラージュのための物と化す。

爪切りを床に置いて、しゃがみ込み、左手の爪をそっと差し込んでおいて

レバーに乗せた右膝の重みで押して切る。 

キッチンのシンクの縁と腰に挟み込んで固定して

ペットボトルやジャムの瓶を開ける。

また、片手を添えることができないので

ハンカチを畳む、タオルを干す、などの際、

5本の指と掌で分担して、押えるのと畳む、タオルを持つのと洗濯ばさみをつまむ、

などを行ってる。

財布の操作も。カードやお札、小銭の出し入れ。

薬指と小指で台上に財布を押さえ、中指でポケットを押し上げて

親指と人差し指でお札を抜き出す。

このときは台の導きが、置いて財布を押さえて固定するように、と

誘ってくれる。 

通常であれば、中空で両手を使っている。

髭を剃るときなどに腕まくりしたい場合は、台所に買い物袋などを

掛けているフックが(腰の高さくらいに)あるのでそこに袖を引っ掛けて

肘までまくり上げる。

物との協働。  

吊られた右手の上、三角巾の中はちょうどよいポケットになる。

習慣の中で構造化されていた、身体・物・道具・操作・行為といった連関が

ゆるやかに、ぎこちなく編成を変えている。

変身物語。

こようなことはたぶん、骨折しなくても発生しているはず。

領土化・脱領土化・再領土化。

季節が変わるとき、合わせて気分も変わり、内外の不可抗力にいつも

戸惑う。不可抗力だけがむしろ習慣なのではないかと思うくらい。

夏は気分は蒸発するように拡散する。光と影、蝉の声、残響の中へ溶け込む。

冬は寒さに凍え、重ね着したうえコートに包まって納まって夜道を歩く。 

鼻先も頬も凍えて、無心の習慣がその内側に芯のようにして納まっている。   

 

「手の倫理」伊藤亜紗/著

を読み始めた。(たまたま骨折する前から図書館で予約していた。)

ブラインドランの体験談にとても共感した。体験を超えた、開放・解放の感覚。私も感じてみたいと思った。

ここで本を閉じて想起したのは、多面体や球や柱や錐。それぞれがさまざまな感覚の、感覚器の切り口を持って外界と接している。連続している。   

それらがが地面を転がるところ、走るところを想像した。

いろんな走り方になる。

さらによく数学の問題に出てくるように、切断してみる。そうしてまた転がる。走り出す。

面が、感覚器の切り口が変わる。走り方も変化するだろう。

それは彼にとって開放・解放であることもあるかもしれない。

(でも本の中で大事なのは、信頼や共振のことなのだけれど。) 

 

情報技術といってよいのか、メディアがまるで身体の、感覚の延長であるかのような領野が拡がっている。

めがねや補聴器はすでにそうか。

この場合、主体が先か、行為が先か?といったジレンマが起きる。

(環世界にとって主体とは何か?また出来事・事実・真実・信とは何か?) 

この本は「倫理」がテーマだから改めて主体を問うことが重要になる。

はじめほうの倫理について検討しているところを読み始めたけれど

(勝手だけれど)私の感覚では、「倫理」は、普遍や一般に対して、この・いま・わたしとの

フィードバックループを形成することで、つまりそこではじめて

主体を問うこと、またわたしという秘められたものの尊厳に常に触れ保証すること

そのものが現動的に倫理になるように思う。

パンクとはこのことで、自前であること、どこまでも自前であることが

自己愛を超越もしくは唾棄していることにある。

最後の最後で全体や他者をとるのではなく、他者としての自己をとること。

(物としての自己をとること?) 

思ったように表現できないけれどひとまず以上をメモ。