「資本主義」も「権力」も

 

志向する自己も、対象となる自己も同じ自己なのだから

 

その自己をも解体して、力動的な流れや磁場を想定する

 

あとは、その経済を分析、予測、また可能であればその操作可能性を探る。治水の技術のように。ある主題における主体性はそのときやっと見いだされる。

 

但し、その流れを見るだけではだめで、流れを制御している河岸や磯の全体を捉える。

 

何を捉えるのだったか、だんだん曖昧になってわからなくもなってくる。

 

でも慎重に。流れは畝って波打って渦をなしている。

 

「私」は種々の関係性の流れの渦であり、瞬きのように小刻みにアットランダムな選択をするスイッチ。弁。そのセンサー。

意志はどうなるか。AIの登場を待つまでもなく、すでに昔からいろいろなものがデフォルトになってる。身体の生理などは太古からのデフォルトだ。

 

「自由」とはどのようなものだったか。それが搾取されている痛みを感じないまま、うっとりと、酔うようにしてみななにかを喪失していく。

「自由」「意志」、これらもまた別の名が必要とされている。

 

怒りの矛先。かなしみ。寂しさ。喜びの理由。出会い。別れ。気づき。懐かしさ。愛おしさ。物忘れ。喪失感。イライラ。

ショパンを聴いて感じるものが、主体性へのノスタルジーではなく、生成する感動であること、またそれに並走する情緒の確かさをどのようにかして記述したい。

音の羅列、進行。

 

 

 

それにしてもなぜ、「権力」や「資本主義」について考えようとすると、普遍性を前提とすることができるように感じるのだろうか。自身があたかも近代的な主体であるかのように。「この」ことを「すべての」ことと同じように語ることができるかのように。

(「権力」や「資本主義」について「この」のことはどのように表せられるだろうか?)