マーク・フィッシャーについてネット検索している。(私は英語ができません。

最寄りの図書館に蔵書がなく困った。

いろいろな記事を読みながら刺激に対する反応

 

 

資本主義か生政治か

 

語り始めようとするときのとっかかり

つまずき

わたし

まなざしを内側から傷つけるようにしてしか言葉は紡がれないから

そのまなざしの前提として

あるカテゴリとして

資本主義か生政治か

ある環世界を接ぎ木してしか思考できないから

生まれ落ちたところでブリコラージュすることでしか存在できないから

 

そのときなぜか

資本主義か生政治か

ということになっているみたい 

 

選択肢としてとらえるなら

資本主義には私としては違和感がある

「資本主義」は流れなのだから流れの中で流れを捉えることはできないはず

つまり批判できない

まあ、もともとわたしのこれも批判なのかどうか、考えたこともなかったけれど

語ることがとどのつまり批判することであるのなら

 

資本主義を語るすべては空疎だ

語らされているに過ぎない。こうして「資本主義を・・・」と記すことそのものに

抵抗を感じる。

語るに値しない。

 

(慌てて補足するけれどもマルクス(とここで召喚する資格が私には全くないけれど念のため)

はわたしがここで馬鹿みたくくだをまいている「資本主義を語ること」とは別のことをしている。) 

 

オルタナティブ」という言葉

わたしにとって大切な言葉だけれど

それを語ろうとするとき

抵抗の場所が予め確保されているかのようなのには

違和感を覚える

 

まず

はじめに

語り始めることができるかどうか

が問題だし

もし語り始めることができているのであれば

それはオルタナティブを実現している

かろうじて実現しようとしていることになるだろう

(ちなみにわたしのこれがオルタナティブでいられているかどうか、「語り始めることができているのかどうか」はわからない。自身で判断できない。これのことをニヒリズムとして非難されるのであればしかたがないけれど、あたかも資本主義を語ることができるかのようにして振る舞い、そのことで自身の「語り始め」の場所を予め確保できているかのように感じることを優先するのであれば、その態度こそ私が忌避したいものだ。それは欺瞞だから。)

 

資本主義という謎を分析すること、はあり得ると思う。

けれどそれを批判しようとするとき、とたんに自己愛的なものになってしまいはしないか。オルタナティブを思考しようとするなら、方法、オルタナティブな方法を模索するべきだろう。オルタナティブは確保すべき場所ではない。方法、様式としてしか見いだせない。

 

語ろうとする欲望は、資本主義より非倫理的だし困難なものだと思う。

陶酔と麻痺を否定するな

陶酔と麻痺は前提だろう

 

 

このような物語

戦場で

強烈に自身の信仰・イデオロギーに身を捧げる戦士

いくつかの戦場で戦闘し祈り思考するうち

滅ぼすべき敵の信仰と自身の信仰のそれぞれの前提じたいが

入れ子になり

混然する

そうして戦うために戦っているだけだということに気づく

戦う理由を欲する戦いでしかなかった

 

 

 

ここまで書いたところで、木澤 佐登志さんのweb連載「失われた未来を求めて」の第2回にいきあたった。不覚ながらここでボラーニョとリンクするとは思わなかった。

オプスルームの破壊のエピソードを読んでまた「見えない都市」を想起したことは罪深いだろうか。

 

 

 

 

申し訳ないけれど

全員が合意できる一本の糸のようなものに習合すると

みなすべてを失う

点(エピクロス)としてぶつかりあいながら

不確定性と遊ぶ器量と甲斐性のために

なんらかの信頼

信のしくみが必要で

いやらしくない程度の 

 

 

 

資本主義について語る困難さは

デュシャンを語る困難さに似ているかもしれない