テラバーニャの屋台にランシエールが訪れる短編をドン・デリーロに書いてもらったらどうか
「 過ぎ去ったものごとはなんだかあどけない」というコピーを昔、どこかで目にした。
福永武彦の「死の島」を通勤で読んでる。
はじめはあどけない物語のように思えたけれど、読み進むにつれ、物語は可能か?小説は可能か?との作者の不安のようなもの、同時にそれに対する、分かりあうものとしての言葉、遍く共有できるものとしての言葉、裏切らない言葉、というようなものへの希求、渇望のようなものを物語に感じるようになった。
テーマや構成とは全く関係がないとは言えないけれど、
作者が賭けているものはとてもシンプルなものだ。この不安・不審さえなければ、もし言葉が物語があれば、暴力は休まるのではないか、というもの。
そのような言葉のための物語の産出を試みているよう。
そのようにして記述すること表出することが可能であるかどうか。
方法としてのあどけなさというものがあるのかもしれない。
時代をひとくくりにできない観点を持つことができればありがたい。もし特異なものがあるのであればそれは救いだ。
昼に東京を出た電車は、翌朝にならないと広島に着かない。途中で車内から電信を発信・受信できる。
駄々をこねる子どもと原節子のやりとりとか
正面からのカット
初めて観たとき、くどいような、あまりに、役者と台詞との一致が、
そんな不思議な感じが気がしたように思う。
カットだけが強まって、かえって、「やだいやだい」だけが強度を持って
浮かんでいきかねない。
麦秋だったか晩夏だったか。能を延々と鑑賞するシーン。
港千尋「愛の小さな歴史」