「2020年4月」をいま(同年9月初旬)想起する。

4月の「感じ」を。

常にどこかで不確定のノイズが鳴り響いていて

それが耳鳴りと区別ない。

反響の反響。

なのにそれは私の中で大きな皮膜に覆われていて

たぶんなので私は静けさの中でそこにいた。

イヤホンで音楽を聴きながら、モニターの前に佇んでいた。

家の部屋の中で。日がな。

入ってくるのは、断片でしかない。

しかもだれかの写しの写し、また写しを写すことの写し。

なのになぜか、私の中で真新しい空港の広々とした空間の中に

佇むような、清潔で瑞々しい場所

淡い光と白い壁しかない展示室の中にいるような

 

あの新鮮さ。あの春の。

あの春のせつなさ。

 

想起する、あの頃きいていた音楽を白状する。

life without buildings

 

これまで潜っていたプールの水が抜けて水位が

いっぺんに下がって、ポカンとつったっている。

 

コーヒーを何杯も飲んで。

 

身体から延長する感覚、媒体からの入力は

いろいろと増えたように感じるけれど

それらおしなべて、媒体を介したものは

どこかこれまでと違う様相になった。

すべてひっくるめられるようになった。

そうして私はやがて私からそれを遠ざけた。

 

不確定な光、乱反射する。

濃い白の半透明の風呂敷に包んで。

 

結局それそのもののことを

難しい

何かに付随したものとして

つまり音楽を通してしか

はじめはどのようにして

ヘッドホンの奥に

 

私は中学1年生で、クラブから帰ってそのまま

体操服の埃も落とさずに三角座りをして

ヘッドホンで耳を覆っている。

そうして音楽を聞いている。聴き終わるまで

食卓につかない。

 

いま

このような想起を持つことは、きっと罪深いことなのだろうと

思う。恥ずかしいことなのだろうと思う。

けれどいまそうしないではいられないし

もしかすると何かの役にたつかもしれない。万が一。どうだろう。

 

もちろん音楽には終わりがある。

こちらだっていつまでも聴き続けるわけにはいかない。

それに恐ろしいことに急にすべてが味気なく

ただのコンテンツの羅列でしかないようにしか

感じなくなってしまうときがある。

そのようなときはどうしようもない。

 

そのようなときはすべてを逆にコンテンツに奪われてしまった

状態なのかもしれない。

しかたなく永遠に続くような砂漠の飢えの中で錯乱していると

やがてただの光、カーテンからの陽光やそれによって見えるもの

それらに癒されているようなそのようなときがくる。

それまではとても長くて大変つらいのだけれど。

 

話を戻そう

4月の感じのこと

 

あの感じの抽出

発掘(方法がずれた)