昨晩は酔っぱらっていて

暗い中適当に手探りでパジャマ替わりのTシャツを探し当てて着て寝たのだけれど、

確かにベージュ色のシャツを着て寝たつもりでいた。

起きて、しばらく活動して、コーヒーを淹れて、何となく本棚の本を物色して読んでいて、

汗をかいた腹の辺りを見ると、水色のTシャツだったことに気がついて驚いた。

 

読んでいた本は、何年も前に買って読んでからしばらくぶりに手に取った。

コンテンポラリーアートセオリー」EOS ART BOOKS出版

2014年1月31日の第2版を購入している。

(このころ、この手の本に飢えていてむさぼり読んだような記憶はあった。)

 

読み始めたのはなんとなくだったのだけれど、のめりこんでしまった。星野太さんという研究者による「ブリオー×ランシエール論争を読む」

 

 

ひっかかりがあったので僭越ながら勝手な別の読み方を少ししてみて

 

ランシエール

「媒介」の抹消

「何も見るべきものがない」ものが・・・

〈芸術=虚構〉と〈現実=政治〉という等号を安易に措置し、前者から後者へ移行することを訴える・・・政治的行動というものを・・・シミュラークルに対置する・・・美的=感性的な距離・・・を無効にすることによって・・・

 政治が主体性の場面を創り上げる上での諸々の操作の特異性をも同時に抹消してしまう・・・

これを政治=現実のシミュラークル化と読むと、

 

ブリオー

「不安定性」

「形成=フォルマシオン」

は、政治の美学化に抵抗できるのかな?と不安に思ってしまう。

(特に今だからかも知れない。生政治の美学化?に) 

 

 

アルチュセールの「出会い」を希望としたいのは同感。でも

氷(水)にとっての「固まる」と芸術的実践の「形成=フォルマシオン」はどうしても異なる。

 

「もうひとりのマルクス主義者であったグリーンバーグのそれとは別のフォーマリズム」にはしびれた。

ほんまに。

グリーンバーグの前提のようなもの。条件。明らかにしたい。

 

 

よくわからんけれど・・・

制作者(行為者) 制作(行為) 作品 展示 場所 鑑賞(参加? 行為) 観客(参加者? 行為者)

のような単線的な図式があるとして、

上のことなどを考えていこうとすると、これを入替えたり離したり、まとめたりしながらそれぞれの経路依存性を組み替えたり省みたりする必要がありそう。

 

そしてそれぞれの都合があるので、整理が大変難しい。

(行ったり来たり。うろうろ。ブラウンウォークとか言ったらややこしいか。)

 

「主体性の場面を創り上げる上での諸々の操作の特異性」

 

 

 

ところで上の本の少し前に、「SITE/ZERO ZERO/SITE 3 ヴァナキュラーイメージの人類学」というものを本屋で見つけて、これも貪り読んだことを思い出して、本棚を漁って見つけ出した。

長谷正人さんの論考が面白くて(「ヴァナキュラー・・・」なるものへの留保と、ルー大柴の出演したテレビ番組「探偵ナイトスクープ」)

このことを先のブリオー×ランシエールと合わせて考えるとますます混乱して面白い。

 

 

 

 

2000年前後のわずかな数年、私自身が芸大の学生だったころの(真似事・ままごとじみた)試みを思い出す。

どこが「表面」なのか、その試み(作品)の、よくわからんかった。今も。

課題の合評でも、制作展での展示の場面でも。

周辺は、自身の制作の記録としてファイルを作ったりしていたけれど、作品の記録をとる、写真に残す、ということの意味がよくわからなかった。

作家の都合と制作の都合と作品の都合てどの時点で一致するのかな。

ていうか、一致させるのが制作なのか。

 

知らんけど