ジョルジョ・アガンベン 著/岡田 温司 訳

「スタンツェ 西洋文化における言葉とイメージ」

ありな書房 p 91−92

『このことが事実とすれば、パンクーク夫人の部屋に保管されていた宝は、物のもっとも原初的な資格を指し示していると言えるであろう。それはまた、死者や幼児やその他のフェティシストたちが、われわれに貴重な証言を提供してくれるものでもある。幼児と外界との最初の関係についての研究において、ウィニコットは、ある種の対象を同定し、それを「移行対象」と命名した。つまり、幼児が外的現実の中から分離させ、自らに同化させる最初の物(シーツや布地の端のたぐい)であり、その場所は、「親指とテディ・ベアの間に、口唇性欲と真の対象関係の間にある経験の領域に」位置している。それゆえ、これらの「移行対象」は、文字どおり内なる主観の領域に属しているのでも、外の客観の領域に属しているのでもなく、ウィニコットが「イリュージョンの領域」と呼ぶものに属しているのである。その「潜在的な空間」の中に、遊戯ばかりでなく、文化的経験すらもまた据えられることになる。文化や遊戯の位置づけは、それゆえ、人間の内でも外でもなく、「第三の領域」、つまり「内なる心理的現実からも、個人の生きる実際の生活からも」区別される領域の中にあるのである。

 心理学の言語が手探りでとらえたこのトポグラフィーは、実はフェティシストや幼児、「未開人」や詩人がずっと昔から気づいていたものなのである。十九世紀のあらゆる偏見から真に解放された人間の科学が、その探求の先を向けなければならないのは、この「第三の領域」に対してであろう。物は、使用と交換の中立的な対象、「前に置かれたもの」[ob-jecta]として、我々の外、つまり計量できる外の空間にあるのではなくて、それ自身が我々に原初的な「場」を開示しているのである。そして、この「場」から出発してはじめて、計量できる外の空間の経験は可能となる。つまり物それ自体は、最初から、世界内存在としてのわれわれの経験が据えられる「場なき場」[topos outopos]の中でとらえられ、理解されるのである。「物はどこにあるのか」という問いは、「人はどこにいるのか」という問いと切り離すことはできない。物神として、玩具として、物は本来いずこにもない。なぜなら、それらの場は、対象の此岸でしかも人間の彼岸に、つまり客観的でも主観的でもない、認証的でも非人称的でもない、さらに物質的でも非物質的でもない領域に位置しているからである。が、その領域の中で、われわれは突然、一見したところは非常に単純に見える未知数x、つまり人間と物に直面するのである。』 

 

 

 

 石田 圭子 著

「 美学から政治へ モダニズムの詩人とファシズム

 慶應大学出版会 p86−87

 おおわたしたちが、太古の太古の先祖であればいいのに。

 あたたかな沼地のなかのひと塊の粘液体。

 死と生が、みのりと出産が

 わたしたちの無言の液から滑り出ればいいのに。

                                                                                   』

論文中でのゴットフリート・ベンの詩の引用。(「唄」部分)

「先祖」に「おおおや」とのルビがある。