身体は不定形のトポス

この手 この頭 この足

この腹 この胸 この心臓 この脳・・・・

が集まったこの身体を身体とは言えない。

 

身体はひとつの虚構

不定形のトポス

 

私は偏在する

光 風 木の葉 湿気 熱

音 空腹 尿意 空 地面 喜び 悲しみ 

もろもろ もろもろ

私はどこにもいない

 

 

 

意識と無意識は対概念ではない。

混交している。海の風や波や光や水のように。

偏在して混交している。

意識も無意識も虚構のひとつ

 

身体や意識や無意識などでなくてもいい。

トポスという虚構があって

そのものとの距離そのものに佇む。

潜む。

 

距離があるとき、距離を認知しているときは

既にそこに潜んでいる。距離そのものに潜んでいる。

見ること、聞くこと、距離そのもの。 

 

見るとき、瞳にも光が入ってきていて

少し眩しいな、と思いながらも対象をぼんやりと見ている。  

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

「優しい暴力の時代」チョン・イヒョン 訳/斎藤真理子

「情報環世界」伊藤亜紗 ドミニク・チェン 他

 

子どもの環世界に「わからない」はないが

大人の環世界には「わからない」がある。

別の環世界。

同じく神話の世界ではこの意味での「わからない」はない。

一神教の神にとっての「わからない」は?

 

わからなさが持続する状態は、絵画など遅延の状態。 

セザンヌ。予測不能性(出来事)と予測可能性との淡い。

出来事はどこで起きるか?

 

出来事が先か主体(環世界)が先か?

主体を想定して初めて環世界の翻訳可能性を語り得る。

主体、自由、意志。

 

主体であることへの強迫観念が、フィルターバブル生む。

アイデンティティへの切迫した執着。

 

出来事のトポス

ヴァレラの「縁起」面白い。 

 

「共話」面白い。

小説では、「岩」という亀や猫のぬいぐるみ、  

母子やその子の共振、閾、言葉の閾、

つまり「わからなさ」が「縁起」して物語が生成(遅延)している。

 

「感性的なものの分有」ランシエール

環世界も虚構のひとつ。

出来事のトポスをアンフラマンスのヴェールで覆う。

そうした距離の技法が求められる。

そうした距離の技法についての語り方。

距離があるから

皆それぞれに皆それぞれ自身に対する距離があるから

皆お互いに保つことができる。

自己という異郷。

 

小説。「コンギ(空気)」という朝鮮の遊び。

小石と手(と空気)でもって、時空を遊ぶ。

ここでは「環世界」も「わかる」も「わからない」もない。

「主体」もない。

「縁起」だけがある、と言えるかな。虚構のひとつの技法と

言ってしまうと味気ないか。

「空気」のところはあまりに美しくて、イメージをじっくり

反芻するために本を閉じてしまった。

降りる駅まで、車窓からの風景を眺めて過ごした。 

 

(「情報環世界」に戻って)見るを持たない方のメモの話。

あのメモとドローイングは、「メモ」「ドローイング」とも

「主体」とも「環世界」とも言えないのでは?

なにとも言えない。

ただそれがある。そうしているそれがある。

「縁起」してる。?。

それを読んだ私がいる。

それを知る。

翻訳されて誤読している。

話は飛ぶけれど、カーヴァー「大聖堂」を思い出した。

ベタかな。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多木浩二「「複製技術時代の芸術作品」精読」

 

セルトー「日常的実践のポイエティーク」

 

フィッシャー「わが人生の幽霊たち」

 

チャトウィン「ソングライン」

 

綾屋紗月+熊谷晋一郎「発達障害当事者研究

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土曜の朝に思いついてmerzbowを購入してダウンロードした。

1996年のもの。

そうして日がな聴き続けて、昼寝も聴きながら。

夜は残響の中で深い眠りに落ちた。

久しぶりによく眠れたように感じる。 

 

「資本主義」も「権力」も

 

志向する自己も、対象となる自己も同じ自己なのだから

 

その自己をも解体して、力動的な流れや磁場を想定する

 

あとは、その経済を分析、予測、また可能であればその操作可能性を探る。治水の技術のように。ある主題における主体性はそのときやっと見いだされる。

 

但し、その流れを見るだけではだめで、流れを制御している河岸や磯の全体を捉える。

 

何を捉えるのだったか、だんだん曖昧になってわからなくもなってくる。

 

でも慎重に。流れは畝って波打って渦をなしている。

 

「私」は種々の関係性の流れの渦であり、瞬きのように小刻みにアットランダムな選択をするスイッチ。弁。そのセンサー。

意志はどうなるか。AIの登場を待つまでもなく、すでに昔からいろいろなものがデフォルトになってる。身体の生理などは太古からのデフォルトだ。

 

「自由」とはどのようなものだったか。それが搾取されている痛みを感じないまま、うっとりと、酔うようにしてみななにかを喪失していく。

「自由」「意志」、これらもまた別の名が必要とされている。

 

怒りの矛先。かなしみ。寂しさ。喜びの理由。出会い。別れ。気づき。懐かしさ。愛おしさ。物忘れ。喪失感。イライラ。

ショパンを聴いて感じるものが、主体性へのノスタルジーではなく、生成する感動であること、またそれに並走する情緒の確かさをどのようにかして記述したい。

音の羅列、進行。

 

 

 

それにしてもなぜ、「権力」や「資本主義」について考えようとすると、普遍性を前提とすることができるように感じるのだろうか。自身があたかも近代的な主体であるかのように。「この」ことを「すべての」ことと同じように語ることができるかのように。

(「権力」や「資本主義」について「この」のことはどのように表せられるだろうか?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しばらく読書の記録を怠っていた。

なんだか最近だるい。

とりあえず思い出すまま。

ジム・トンプスンの短編集をつまみ読み。アル中だけれど凄腕の職人て感じ。鉋持つと手の震えがピタッと止まる。「この世界、そして花火」よかった。編集者によるあとがきがよかった。

「無意識の構造」マンダラは嫌い。でもこの構図でとりあえず納得しておいてしまいたいような誘惑がある。この歳になると。どんな茶番でも(ヘッセ)。口直しに無人島読もう。

「企業・市場・法」難しい。解説を先に読んで、次に「経済学における灯台」を読んでる。

 

コレット「軍帽」

もしかするとベストかも。作られものの持つ技巧や素材の痕跡がきれいさっぱり感じられない。性差によるのかな。わからない。白石かずこは香水の匂いと言っていたけれど。僕はもっと読むことそのものの行為のなかで関心した。酔っていないとは言い切れないけれど。でも誰が言えるのか。

 

週末、集中して鎮座dopenessのlive動画(コロナ前のもの)を観た。どこか、東京から8時間と言っていたけど、坊中小学校というところの体育館。組まれた和太鼓の前でのセッションがとてもすてきだった。「なごみの湯」のこと。それをはじめに観て。

MCバトルのときもそうだけれど、イベントの演奏でも、インタビューや旭川のスナックを回っているときも、自分を空にするような気づかいが言葉に乗り移って反映されているように感じた。「内容がない」とは周囲に指摘されたり自分でもスタイルとして自覚しているようだけれど、少し「芸術のための芸術」に似ている。

「言ってるのか言わされてるのか・・・」

言葉の発生の前に自分は空になっていて、グルーヴと旋律がいつのまにか跡に残っている。

それでは言葉はどこから来ているのか。「素朴」というととても語弊があるけれど、どこでもいまそこでの。たぶん。方法として主体性を予め排している。けれどそれはイタコや霊媒としてではなく、もっと即物的なもの。

ここでW・カーロス・Wなどといったらそのすじの人たち双方からぼこぼこにされるかな。

ごめん。おいしかった。とても冷たくて・・・みたいな。

 

グルーヴと旋律の霊媒と言ったほうがよいのかもしれない。言葉でなく。いまわのきわや生誕や、世界の終わりや始まりや、いつどこに居合わせたとしても、グルーヴと旋律をこそ残す。