台座の上のことば

どんなふうにしている皿の上で

ことばたちは

 

19世紀末にはいろいろなことばが

生まれて

わたしたちもうまれて

双方

つまり

ことばもわたしもわたしたちも同じく

獲得することと生きることが

同じことだった

(からだとか)  

 

たぶん戦前までは

 

戦後はどこか

口語も文語も方言も

消費されることのほうへ

向かってしまって

まだ情報化社会とでもいうのだろうか泡沫のことについては

語るのは難しい

いまは

 

ところで戦前は思っていたよりも

いたるところでことばが

ウィルスのように人を介して

それじたいで生成していたみたい

(毒としてのモダニズム) 

台座の上で

その台座

 

詩誌というもの

戦後のまなざしからは掻き消えてしまった

詩誌の誌上の台座としての機能

見えない機能を

古層を浚って発掘したい

 

戦後の詩と戦前の詩は異なる

ベンヤミンヘルダーリン論にあるような

作られものとしてのことば

まなざしの中での生成渦中

台座の上で

かつては遅延があった

誌上に遅延があった

そのための台座があった

 

遅延や生成の台座を喪失した

衛生による措置が滅菌が

誌上に施されて

戦後は消費されるだけの

ページがページがページが

舌が舌が舌が

 

戦前の誌上のことばにはきちんとした

距離を持って接したい

見えない台座はどのようなものだったのか

感じたい

とても

いま

 

 

一九三〇年代モダニズム詩集 みずのわ出版 を読んだ。

今度、遅ればせながら「日曜日の散歩者」を観る。

 

 

ところで話は飛ぶけれど

早々に電脳空間で大空襲が起きて

私たちも電子の焼け野原のうえで

バラックを立てることになるのではないか

 

そのようなとき紡がれるようなことばを夢想する  

 

 

 

 

 

 

 

 

図書館で借りた本

 

『フライデー・ブラック』ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー

冒頭の引用

「Anithing you imagine you possess.」Kendrick Lamer

を目にして、思わず「怖い」と口にした。

想像すること=所有すること

想像が直接になる。想像と現実が直結する。想像にも責任が生じる。想像という形で。

私は弱い。萎縮してしまう。

 

ランシエール「主体性の場面を創り上げる上での諸々の操作の特異性」を思い出した。

 

 

ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』

ヘルダーリンの「憶心」を読んで、あまりのことに息が詰まりそうで頭がおかしくなりそうだった。とびぬけた明るさ。頭蓋が透けそうなくらいの。

朝にホフマンスタール読んでいたこともあったかもしれない。

 

 

 

荒野に流離われ

耕されるわたし

 

 

 

 

 

 

 

 

朝から気力なく

カーテン半開きにして

家中を彷徨う

 

食べ終えた煎餅の小袋が

床に落ちて欠片が散らばった

 

換気扇の回るキッチンへ流れて行く

煙草のけむり

 

各所の海辺で集められた

棚の小石たち 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

図書館で小沢書店の「ホフマンスタール詩集」を借りた。川村二郎 編・訳

 

開くと、愛読者カードがはらりと膝に落ちた。

「ご購読をお礼申し上げます。このカードによって、最新目録、PR誌最新号などをお送りし、さらに充実したサービスをさせていただきます。御名前、御住所をご記入の上、ご投函下さい。

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1 本書についての御感想

  イ 内容

  ロ 装幀造本

2 本書読了後、つづいてどんな本を読みたいとお考えですか?

3 最近、お買い求めの書物を2,3点おあげください。        」

 

 

ページをペラペラめくっていくつかつまみ読みした

「早春」 「外側の生のバラッド」 「もとより中には・・・」 「まどい」 「思念の魔」 

 

コメレルの文章に、スポンジが出てきて、スポンジ・ボブを思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マーク・フィッシャーについてネット検索している。(私は英語ができません。

最寄りの図書館に蔵書がなく困った。

いろいろな記事を読みながら刺激に対する反応

 

 

資本主義か生政治か

 

語り始めようとするときのとっかかり

つまずき

わたし

まなざしを内側から傷つけるようにしてしか言葉は紡がれないから

そのまなざしの前提として

あるカテゴリとして

資本主義か生政治か

ある環世界を接ぎ木してしか思考できないから

生まれ落ちたところでブリコラージュすることでしか存在できないから

 

そのときなぜか

資本主義か生政治か

ということになっているみたい 

 

選択肢としてとらえるなら

資本主義には私としては違和感がある

「資本主義」は流れなのだから流れの中で流れを捉えることはできないはず

つまり批判できない

まあ、もともとわたしのこれも批判なのかどうか、考えたこともなかったけれど

語ることがとどのつまり批判することであるのなら

 

資本主義を語るすべては空疎だ

語らされているに過ぎない。こうして「資本主義を・・・」と記すことそのものに

抵抗を感じる。

語るに値しない。

 

(慌てて補足するけれどもマルクス(とここで召喚する資格が私には全くないけれど念のため)

はわたしがここで馬鹿みたくくだをまいている「資本主義を語ること」とは別のことをしている。) 

 

オルタナティブ」という言葉

わたしにとって大切な言葉だけれど

それを語ろうとするとき

抵抗の場所が予め確保されているかのようなのには

違和感を覚える

 

まず

はじめに

語り始めることができるかどうか

が問題だし

もし語り始めることができているのであれば

それはオルタナティブを実現している

かろうじて実現しようとしていることになるだろう

(ちなみにわたしのこれがオルタナティブでいられているかどうか、「語り始めることができているのかどうか」はわからない。自身で判断できない。これのことをニヒリズムとして非難されるのであればしかたがないけれど、あたかも資本主義を語ることができるかのようにして振る舞い、そのことで自身の「語り始め」の場所を予め確保できているかのように感じることを優先するのであれば、その態度こそ私が忌避したいものだ。それは欺瞞だから。)

 

資本主義という謎を分析すること、はあり得ると思う。

けれどそれを批判しようとするとき、とたんに自己愛的なものになってしまいはしないか。オルタナティブを思考しようとするなら、方法、オルタナティブな方法を模索するべきだろう。オルタナティブは確保すべき場所ではない。方法、様式としてしか見いだせない。

 

語ろうとする欲望は、資本主義より非倫理的だし困難なものだと思う。

陶酔と麻痺を否定するな

陶酔と麻痺は前提だろう

 

 

このような物語

戦場で

強烈に自身の信仰・イデオロギーに身を捧げる戦士

いくつかの戦場で戦闘し祈り思考するうち

滅ぼすべき敵の信仰と自身の信仰のそれぞれの前提じたいが

入れ子になり

混然する

そうして戦うために戦っているだけだということに気づく

戦う理由を欲する戦いでしかなかった

 

 

 

ここまで書いたところで、木澤 佐登志さんのweb連載「失われた未来を求めて」の第2回にいきあたった。不覚ながらここでボラーニョとリンクするとは思わなかった。

オプスルームの破壊のエピソードを読んでまた「見えない都市」を想起したことは罪深いだろうか。

 

 

 

 

申し訳ないけれど

全員が合意できる一本の糸のようなものに習合すると

みなすべてを失う

点(エピクロス)としてぶつかりあいながら

不確定性と遊ぶ器量と甲斐性のために

なんらかの信頼

信のしくみが必要で

いやらしくない程度の 

 

 

 

資本主義について語る困難さは

デュシャンを語る困難さに似ているかもしれない