「民衆暴力」藤野裕子
「1984年に生まれて」郝景芳
コーヒーカップに滑らかなギネスの泡が盛り上がっていく。さながらラテのように。
早朝、イヤホンから耳へsenyawaを流し込む。
春の日、戸外は快晴。
窓辺で踊りながら「〈わたしたち〉の到来」中井亜佐子 を読んでいる。
「ヴァレリー芸術と身体の哲学」伊藤亜紗著と「いつかたこぶねになる日」小津夜景著をジュンク堂で購入。
ヴァレリーは図書館で借りて読了したところで、あまりに幸福な読書だったので、購入のうえ再読、精読したい。その前に、以下ひとまずのメモ。
最後、あとがきにあたる「おわりに-ひとつの夢を本気でみること」に強く共感する。多元主義の水平さへの物足らなさ。「・・・多元主義や水平性の過剰な尊重が、垂直方向へと突出しようとする私たちの可能性を抑圧しているとしたら、それはやはり憂慮すべき事態だとわたしは思う。それは私たちの未来から生命力を奪うものだ。」とは、当時みながなんとなく感じていたことだったろうけれど、今日ますます重要な課題になっていて、わたしはいろんな危機(ポリコレ・フェイク・アイデンティティポリティクス・ポピュリズム・・・)に脅かされて呆然としている。(私たちの未来と生命力とは何か?とも問わなければならないけれど。)
そこで、本気で夢見ること。
①「・・・特異な事例や特異な体験から生じた夢が、にもかかわらず普遍的妥当性を持ちうるのではないかというところに賭けられた論理・・・」②「・・・たしかに純粋主義は、一つの価値を標榜する点で絶対主義的だ。しかし、その価値を論理的に説明し、他者に自らと同じ夢を見させようとするその説得の過程において、自らと異なる他者の存在に向き合わざるをえない・・・」しかしながらその後の③「それは他の価値を尊重して不干渉を守るような多元主義ではなく、堂々と自らの価値を主張し、他なる存在を認めつつもそれを誘惑しようとする多元主義」との結びつきが??となる。①は首肯する。③はとても立派だ。けれど、①が一番大事で、「他者」「多元主義」はもはやどうでもいい。
作品は様々な仕掛けを伴う装置をして、身体を錯綜体にする。そのとき生産者・消費者の別は溶ける。また、身体(錯綜体)は虚の身体として、主体・時間・空間からずれる。上手く言えないが、それは喜びそのもの。すべての存在の喜びそのものがあるとすればそのようなもの。そうしてそれを甘受できるのは、神から時間へと放逸されたこの身体であり、この身体のつまずきなのだと思う。「他者、それは私の変形」であり、「自然の盲目性」としての「陶酔」を得る。詩。
たこぶねのp120
「ないものをあると語りだすことによって、はじめてこの世界はひとつの像として立ち上がる。」
このことを自分が言いたかった。
上記のヴァレリーの変形身体生成のための時間装置にも通じるところ。今めちゃくちゃにしか言えないけれど、再読して確かめる。
ところで、あとがきの「本気で夢見ること」に戻るけれど、水平ー多元の対に対し、垂直ー絶対?純粋?の組み合わせだけではないと思う。垂直ー多元もあり得て、そのとき夢はわたしを離れてものの散乱・羅列・堆積になる。
闇の自己啓発は佳境。
制作は系譜原理を断ち切るものと先に書いたけれど、
これは、ポイエーシスとプラクティスみたいなお話のようにも
思えるし、
エリオットの伝統の継承のお話にも思える。
つまりモダニズムのお話。
ただ「未来はここで終わる」という観点が要点になる。
逆さからも見たモダニズム。
過去からも未来からも断ち切られる。
(ずれる 断層 蝶番がはずれる 時間=人間だった。)
いま。いーま。いまいま。いーまいま。まいまい。ま。
郝景芳短編集でも引用されていた
還魂記を思い出す。
わたしたちはすでに埋葬されつつある人形で
不定形の情(いつも発芽したばかりで摘み取られた)だけが遊離して
シュガーパウダーのように降り積もっている。
この世に輪郭を与える。