足もと溜まるコールタール

溶けるアスファルト

垂れる雨だれくも膜下都市

熊乗る樽転がるガードレール

剥がれモルタル落下タイル砕ける

螺旋に登る階段蛇のメダル

天空の眼窩大地溢れる

涙累々と枝分かれ伝う筋となれ

雨粒ガラスを這う粉々にひかり稲光

曇り煙る濁る絵具だまり黙る破れる

袋からレモンリンゴオレンジキウイパイナップルスイカレモンアプリコットメロンメロンメロン・・・

 

 

 

猿ふざける立体パズル駐車場 

 

 

 

蜘蛛や蠅みたく文脈を彷徨う

言葉をミルで挽いて

砕けた文字に湯をかける

獣の摂食した未消化のそれを洗浄し乾燥し焙煎したもの

 

 

 

 

知らぬうち窓の外は煙っていて

雨音不意にノイズと化す

波のように意識の外から外へと

皴になる

 

外気の影響を受けほんのりと

湿気た床のうえ

歩くわたしは平行に

 

雷鳴が空間を切り取って浮かせる

折り鶴のようにして待つ

到来を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「自前のメディアを求めて」田村 紀雄

 p144人間が回路になっている

 

「ハインリッヒ・フォン・クライスト 「政治的なるもの」をめぐる文学」

 わたしの言う自由とは

 

 

 

魂だけでも移民でありたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

利潤のみを考える。それを生むのは価値だろうか。顧客だろうか。

WWWによって、ヒトの活動は多様化している。消費活動は多様化している。

どこで利潤を稼げるか?利潤はどこで発生するか?発生させるか?

WWWによって、ヒト、モノ、コトの動きを平板化し、交換可能にできる。生産者、販売者、消費者の動き、生産物、販売物、消費物の動き。活動の生態系。

活動は、ヒトの生活とも言えるかもしれない。けれど、生活は、定常的根源的活動から派生はするかもしれないが、その表現や境界は流動的で可塑的だ。また、活動主体についても、ヒトとは限らないかもしれない。モノ、コトの動きが利潤を発生させていると言えるものもあるかもしれない。

 

利潤は3項関係的だ。ヒト、モノ、コトのどの組み合わせでもよい、1者の位置から別の2者の動きがあり、その2者間の格差是正に対し、1者が有益であれば、ポイントが獲得できる望みがある。

 

3者は所与ではない。格差(差異)があってはじめて発生する。差異の発生にはバイアスが必要。

 

この世に存在しているものにはすべてニーズがあり、顧客がいる。世界はすでにニーズで満ちている。個物を見出すには、差異が必要。そのこと自体が利潤を発生しないか?

 

たぶん、すでに、この世のどこかにモナドジー経済学があるだろう。

 

竹林の七賢人は、差異の神話だ。この世のどこかにこのような神話を見つければよい。そうすれば、デッドボールやこぼれ落ちたポップコーンやもの忘れやバグやにわか雨から利潤が産まれるかもしれない。

 

すでに利潤が発生しているところから利潤を考えても始まらない。(利潤の前に収益があって、きっとそちらのほうが難しいのかな。)

イノベーションイノベーションじゃない。

 

花と蜜と蜂の関係を一から創造する。

 

個物を逆に考えると、流れに埋もれる無(へ)の抵抗だ。無でないものは個物を志向し、そのことが世界すべてを色づける。世界というニーズを。

 

 

成長はし続けてもらってもよいけれども、なにか、限界のないことそれじたいが目的であるようにも思える。成功はなにか、ひとつの嗜好にすぎないようにも思える。

頭のいいひとは、現世で経済活動をしておいて(現世の金融活動ももちろんある)、浮世で金融活動をして利潤を得る。両方をする。ある規模の主体になれば可能になる。動かすタイミングと規模だけの問題。余剰した信用が自動に膨れ上がって残酷な心理、操作されるアレゴリーとなる。積乱雲。

 

イノベーションは、花と蜜と蜂の関係を創造しているだろうか。例えに上げて悪いけれどメタバースなどは。スマートはひとつの攻撃なのではないだろうか。これは戦争なのではないだろうか。なにか決定的に限界づけを失敗しているのではないだろうか。たぶん適当に「新自由主義」を批判して済むものではない。それらの根はすべて内在している。わたしたちのエッセンシャルなものの皴に襞にに折りたたまれている。

 

映画「サマーウォーズ」では、数学少年がエッセンシャルワーカーになる(加わる)物語だった。

わたしたちはパルチザンとして、エッセンシャルなものを守らなければならない。わたしたちはわたしたち自身のパルチザンであるし、わたしたち自身のためのエッセンシャルワーカーだ。

 

徹底的に遡行し、底の底まで降りていき、新しく示す最先端で、岬の突端で、生活の素朴のなかで、朝いちばんに、路上で、ひとびとの、わたしの、身体を借りて・・・

また別の物語が必要だ。

 

彼の国の SFは彼女ら自身のエッセンシャルワークだ。彼女らはパルチザンだ。

新たなトロツキー

クライストのような激しさまでをも必要だろうか。

 

 

 

 

 

「あなたに安全な人」という小説を読んでいてもうすぐ終わりそう。小説を読むのは久しぶりだと思ったけれど、少し前に「ディア・ライフアリス・マンローと「赤い魚の夫婦」グアダルーペ・ネッテルを途中までだけれど読んでいた(どちらも短編集)。

いくつかの新聞書評で読んでずっとひっかかっていた。装丁画にも魅かれていた。図書館で予約したけれど借り損ねてそのままだったけれどやっぱり気になって再度予約して順番を待った。シュミットのパルチザンの理論も同時に借りたのだけれど、先に帰りの電車で読み始めて帰ってそのまま食事(レトルトカレーにさせてもらった。)を挟んで読み続けてもうすぐ終わりそう。

はじめ、強迫観念じみた限られた独白の応酬で、状況を掴み取りたくてたまらなくなる。目を背けられなくなる。読みながら切迫してくる。困窮しながらも関係していく男女の応酬を読みながら、それこそ読者も安全を求めてやめられなくなる。なぜならたぶん読者も彼らのような疚しさにどこか身に覚えがあるから。そうして日々悶えるようにしているから。そうして安全をなんらかの形で希求するけれど同時にそうした安全を得る権利はない、自分たちに与えられることはないとも信じている。そうして疚しさと住む。

そうした実在するわけのわからない観念的な痛みを裏付けるようにして傷や火傷や膿や痣などのアンフォルメルな状態でもって一瞬状況を溢れさせる。つばめの糞とか。

疚しさは侵入してくる。

安全は衣食住+α。

確かさ。はじめから独白の地の文は妄想の混じりけがあり、確かさは男女の独白の応酬で重複して確認できるもののみだ。けれど終盤、クリーニング店や家の周辺の界隈がひっそりとしてまるで無人の廃村であるかのように現れたとき、一瞬雨月物語のような茫々とした気分が過った。描写されるのは俗的なことばかりなのに、ふっと底が抜けてしまう。けれどその感触こそが「確か」なもののようにも思えてくる。

このままさいごまで物語が安全でいてほしいと祈るようにして読む。

 

さいごの2ページを残すのみだったようで、さっき読了した。

男たちは重なり合って依り代になって消える。

すべて「ついで」のようではある(あった)のだけれど、だれかの行為をなぞるようにして、雪の中、女(男)はついに手を合わせ、お供えを続ける。

この死、これらの死。あの死、あれらの死。

この生、これらの生。あの生、あれらの生。

すべて実在はお供えとして「確か」になる。 

 

 

 

 

 

 

いつから人は近代的な仮面を身に着けるのだろう。

そうしてまるでいまこことは切り離された起源をギャラリーで鑑賞するようにして振舞うのだろうか。

渦中であるのに。

わたしたちみな不分明でのっかれるものなどなにもない。

少なく見積もっても100年分くらいを同時に呑みこんで生きている。

消化も昇華も消費も渦中。

懐中の武器として胃拡散手元に。

歴史との闘争。汚れていないものなどなにもない。

絵画は汚れ。イメージは染み。

でも、勝者は近代なのだろうか。ギャラリー鑑賞者が勝者なのだろうか。

まるで闘わないために闘っている。

闘わないことで闘っている。

 

新しさ、瑞々しさ、朝の光・・・

宝石を覆したような 

 

 

 

 

 

ところで、帰り、駅でラーメンを食べながら、図書館を利用したこと、お茶をいただいたこと、バスの時間を調べてメモをいただいたこと、これらすべてが無償だったのだよなあと改めてしみじみと気づいてからこの私設図書館での滞在の経験について未だ考えている。

これをこんどはわたしが誰かになんらかのかたちで渡すのだろうなあとなんとなく思う。そうしてそれはバトンを渡すようなものや負債の転嫁のようなものではなく、他でもどこかへ帰っていく図書館を利用した(意志を持って、もしくは事後的に見いだされる意志を持って、だからたぶん「もてなし」や「歓待」とも異なるように思うから)みなが自然に身に着けることになる態度(懐中に携帯するなにか)としてなのかもしれないと思う。

小さな火が静かに燃え移っていくように。煙草の火を、または熾火をシェアする人たちのように。  

 

月曜社から谷川雁が出る。かきとりシステム買おうと思ってお小遣い貯めてたのに。 

 

 

 

例えばわたしたちなどいなくて

自然と機械しかないとすれば

つまりすべてのものからわたしたちの営為の意図や企画にかんする

自意識を差っ引くなら

 

自然と記号と機械しかないとすれば

 

そうしてそれを後でわたしたちが眺めることができるとすれば

(眼差しがそれに耐えうるとすれば) 

そこにはやはりわたしたちの営為の意図や企画の痕跡を見出すだろう。

(耐えるために、それを痕跡と見做し、見出すだろう。)

ただし、思ってたのとは違うかたちで。