busoniのリストとana-gのばからばかり聴いてる

 

 

『狂気な倫理』小西真理子/河原梓水編

8章「ひきこもりから無縁の倫理、あるいは野生の倫理へ」小田切建太郎

を読んだ。

 

 

『フライデー・ブラック』ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー

冒頭の引用

「Anithing you imagine you possess.」Kendrick Lamer

想像すること=所有すること

 

 

「展開された場における彫刻」ロザリンド・クラウス

 

 

 

 

 

『布団の中から蜂起せよ』高島 鈴

p108-109

「われらは〈未知なる人々〉に連なるべきである、と言ってしまいたくなる。だがここはむしろ、都市が〈未知なる人々〉を受け入れる形に変わるべきである、と言わねばなるまい。問題は常に構造の側にあり、個人は構造を形成する一部として自己の問題を受け止めるべきであるからだ。」

「・・・だがまず変わらねばならないのは、おそらくは風景なのだ。風景として自然化された「美」の明快さを、場所から引き剥がさねばならない。理解できない・不可解な〈未知なる人々〉が〈未知〉であるまま存在しうる空間をわずかずつでも拡張し、均質化された風景を侵食する。都市の猥雑さは、都市を猥雑に流浪する〈未知なる人々〉の手に解放されるべきであり、視線のありようもまた猥雑に撹乱されてよいはずなのである。」

「・・・視線もまた再魔術化が可能なのではないか。こうも大仰な言い方をするまでもないのかもしれないが、そもそも「客観的」な視線など存在しえないことを前提として、現在支配的な「美醜」がただの一視点として縮小され、理解できない・分節不可能な像を結ぶ視界が対等に現れるような社会状況にこそ、筆者は希望を見出したい。全く異なる視界の間で対話を続けた先に、均質化した都市の視線は解体しうるのではないだろうか。」

 

 特定の一視点から遡行された思弁ではあるけれど、ランシエールの「見えるもの、言いうるもの、為しうるもの」の「縫い合わせ」に接続できる立論だと思う。

(ここに書かれていることは、四半世紀以上前からもう知っていた、感じていたことのようにも思うのだけれど、でもとても新鮮にわたしは感じた。なにが自身の眼を曇らせていたのかはまだわからないけれど、気づかないうちに視野を遮っていた最後の鱗がとれたように感じた。わたしはここに書かれていることはとても根源的なことだと思うのだけれど、これに比して)「芸術」は権力のガス抜きや訓化に貢献しているだけだったのではないかと思えてくる。

かつての読売アンデパンダン展の高松次郎の紐、面白いのだけれどな。 

都市の中でも未知に出会い視線が解体される経験がある。生産から外れる必要がある。

「芸術」はこのことを知っていたのにラディカルになり切れなかったのは、その構造によるのかもしれない。

戦場が違うのかな、「芸術」は美術館(やギャラリー)の一つの場所でこそ闘えるのかもしれない。もっと根源的な表象のあり方のところで。 

必要なのは「救い」ではなく、そもそも「救い」が必要とされない状況だということだろう。

「救い」などはすぐに産業化されてしまうから。

いかに「未知」と接するか。すぐに取り込まれ「しかけ」などと呼ばれて権力にシステム化されるから。

ソ連の地下出版のような、地下活動が必要とされるのかもしれない。

それとも眼差しの特区が必要だろうか。

 

本の作者はまず位置取りの闘いをする。そうして得た視座からひと飛びに根源を語る。

 

革命前夜の身体、とか

生の扇動、とか   

 

 

 

 

 

外は雨。妻が

彼女の晩酌のウィスキーの小瓶を

迂闊にも卓上にしまい忘れていたのを手のひらの

窪みに垂らして舐めた。

雨は天に遡り帰りゆく。

 

 

 

「布団の中から蜂起せよ」高島 鈴

購入して読み始めた。

 

まず初めに言いたいことは、暴力への希求についてはわたしのほうが誰よりも強いということ。

張り合うわけではないけれど、そのように言いたくなる感覚を呼び覚まされた。

そのようにして言葉が滑り出てくるので、失礼に当たれば申し訳ないけれど、

これは触発によるから(なにが「から」なのかわからないけれど)、衝動を優先して先に言葉する。 

 

わたしはなぜか、~ズムとか、~ストといった言葉にはにはピンとこない。

パルチザンという言葉には魅かれる。

魅かれるか魅かれないかなどアンガジュしている本の作者の覚悟に対して幼稚な観点かもしれないけれど。

未知や不可知と権力との境がわからない。権力より世界は広いと私は思う。でもはっきり境はわからない。(この世の権力でない部分てどんなところなのだろう。偶然と物質?。時間と空間は権力。)

この世は思っているほどきちんとしていない。たしかに。なのにあるのはすごいことだ。

たぶん積み木をして崩れないようにする感覚だけでやってるところがある。

この感覚の整理が必要なのだと思う。

「そこのところ気にしなくても崩れないよ。場合によってはいっぺんにほとんど入れ替えても崩れないよ。スリルを楽しんでいるわけではなく、柔軟で風通しよく快適になるのだよ。ほらね。」と示す(このことがとてつもなく難しいのだけれど)。

人は崩れるのが怖くて自らがすでに潰れていてもなおさら自動的に他者(自ら)を排斥し殺し虐待するのだろうと思う。この押しつぶされ。ポグロム

権力より世界は広く、偶然を先に確保することが闘争なのだと言いたいけれど、わたしはこの世の悲惨に対して何も言えない。怖い。資格がない。

 

私にとっては皮肉なしに掛け値なしにすばらしい本。作者の位置取りと語り、語りと位置取り。

まだ途中だけれど今のところ好きなところは「ギャーハハハハ!・・・・・・・・・・・・。」というところ。 

 

言葉を滑らせるけれど、

押しつぶされと、固有名詞と種と類の圧縮とも見えるような世界の縮まりに恐怖を感じる。

世界(意味・自然・身体)は急速に陳腐化され縮まっている。

実存と記号に串刺しにされてわれわれはみな部分になり(全体より先に部分にされる)ピン止めされ標本にされ意味論的に予め死んでいる。

象徴の取り扱い間違い。 

これは「権力」だけのせいなのだろうか。

(被害妄想と言われるかもしれないけれど。それでもいいのかな。)

 

以上、枕の上で夢見心地で走りながら書きました。

 

  

 

 

偶発性生成器は機会原因のゴーレム

眼差しの環世界と手品の種明かし

ジンプリチシスム

 

会議後に片付けに残って、プロジェクターはつけっぱなしになっていて

スクリーンに残った文字やイメージの痕跡。波打ち際にうちあげられた

うち捨てられた光、近づくとドットの肌理が見えて貼りついている。

手をかざすと映るけれど何も感じない。見えるだけ。

外壁やガラスに映る木漏れ日。街灯の光に影するものたち。

スクリーンすれすれのその無感覚の中に薄く薄く入り込みたいと思う。

麻痺し鋭利な傷の広がりとして。透明な感覚の場の受容器として。

無音の響きの彼方へ。変形し憑依した、ただ光を受ける身体として。

欲望じたいもあまりに幽かな恍惚の一撃に麻痺してしまって

(馬鹿げた文言で笑ってしまうけれど) 

ほんの一瞬なのだけれど。