ただの物神崇拝なのではなく、物神崇拝崇拝なのだと思う。

グレープフルーツチューハイチューハイ

 

砂漠に落ちた戦闘機て名前のケーキはあるかな

激烈甘い

 

津波の霊たち リチャード・ロイド・パリー

NO NUKES  ミツヨ・ワダ・マルシアーノ 名古屋大学出版会

 

スーパーマーケットで買える緑の缶。

エビス・ザ・ホップ

オリオン・ドラフト

 

 

ヒッピーのはじまり ヘレン・S.ケリー

 

 

酔ってるから記せること

 

読●アヘンというところから「●ことバ●ビ」を読んでる。

これは呪●廻●の元ネタの一部なのではないか?

 

淡い幽霊譚

現代の鏡花やね

情がモノになってる

花みたいに

 

また環魂譚思い出した

 

ところで眠ってる人ってなんて獣っぽいんだろう

眠ってる人みな獣

人も獣も眠るときは同じ

 

ペヨーテ 

 

鏡花の「銀鼎」青空文庫で読める。

 

うーん。てか、鏡花と漱石

鏡漱花石しようと

してる?

「あなた、わたしのこころでしょう?」

にほんごヤバい

 

北米探偵小説論21を図書館で借りてつまみ読みしている

 

 

ジム・トンプソン

こころ

こころ

じむじむトンプソン

こころ

ころころ

 

ポロポロは小実昌 

 

この情の玉突き

北米・・・で言えば自己の

転移かな

誰も言葉にできないでいる

ことばは古い

でも新しい

こんなときわたしになにができるだろうか

 

 

 

 

 

酔っているので、かろうじて記せること

 

weekendのnostalgia購入

 

●術●戦(17巻の展開)

 

木澤佐登志さんの失われた未来を求めて

議事堂の中のシャーマン

 

 

中井久夫さんの「治療文化論」に確か、普遍症候群、地域症候群、個人症候群について記されたところがあって、かつて読んだ際、ひとつの症例においては普遍も地域も個人もそれぞれ重なり合って同時なはずだなあ。と思っていた。書いてあったことだったかどうかわからないけれど。

パンカジ・ミシュラの「怒り」まだ読んでないけれど、これも同じで、この怒りがどれも同じ「怒り」だと捉えると誤りで、どれもどうしようもなく個別であるはずだ。

本当は、この個別であること。出来事の原石のようなものが分有されるべきで(琵琶法師を介するようにして)・・・。

 

ベンヤミンシュールレアリズムのレポートを帰りの電車で読んでいて。どれもどうしようもなく個別。はらわたリアリズムも。ボイスと星の王子様を重ねたら悪いのか?

前世紀後半を語る新たな技法が必要だ。フルクサス関係者のダイアグラムを大昔に見たけれど、この技法ではボイスの射程を捉えきれないと思う。カルチュラルスタディーズの観点からグリーンバーグを分析したらさぞ面白いだろうなということは、学生時代の自身でも妄想することができたけれど、ボイスの分析は、一筋縄ではいかない。

本当に笑った。コヨーテ。芸術=資本(日本語にすると味気ない。)。

ボイスとグリーンバーグと星の王子様を重ねて語る射程が必要だ。

酔ってるからこんなこと言えるのだけれど。シャーマン被りなんだよなあ。

(議事堂のシャーマンはこちらから見るとラウシェンバーグを彷彿としてしまう。かつてオウムのサティアンが日本の暗い?前衛芸術を彷彿させると言われたように。?。)

 

社会の可塑性を示す。流動(液状)性は前提。 その方法。

空飛ぶ鋼の兵器を操るシャーマン。墜落して壊れた体がフェルトに包まれた脂肪漬けになる。

繭の中の時間。その地ユーラシア。ユーラシア。

厳密には詩ではなかったろう。ボイスが何かを「完成させていなかった」とすると

それは、この経験のことだと思う。繰り返し繰り返しそのことの反復を問う。

この経験を生き続ける。この繭の中で心身が溶けて流動していたそのとき。

各種のモノを見ていると、彫刻を、彫刻の概念を拡張した、のではなく、

既に彫刻それじたいはどのようにでも拡張されていたように思える。もはやヒト(波打ち際の)の概念を超えて。

拡張された可塑性を示す。フェルトは示す。脂肪は示す。

どうしようもない社会の流動性を。

モノたちは、かろうじてのサンプルで、すべて流れ去ったその跡しか示すことができない。

コヨーテと光は示していた。モニュメントとしての杖の形象。流れに棹差す。櫂。

金網の格子。だからすべてはじめから残骸だった。

 

 

 

琵琶法師の方法として分有されようとしているのは、

フェルトに包まる脂肪漬けの私。ぐちゃぐちゃに液状化した私。

繭の中の私。脂肪は身体の代替。フェルトは絶縁体としての媒体。

触れる私が示すところの可塑性によって、触れられたものは顕になる。

 

触れ得ることの可能性。可塑性の成立の条件をこそ問おうとした。

この私もこの私をとりまくものも互いに液状であるとき、

代替としての脂肪と絶縁体としてのフェルト、その絶縁の手触りによって

私と私をとりまくもの同時に顕になる。

 

いないいない いないいない いないいない

ばあ

 

 

 

 

最近のポピュラーミュージックをフォローしているわけでもない。

わからない。わからないけれど。

妻に勧められて「●スの●み●め。」というバンドの曲を聴いた。

そうしていくつかの曲にはまってしまってここ2、3日寝る前にずっと聴いていた。

 

知らない人がいないくらいすでにとてもとても評価されているようだから、ここに自分が記す必要のあることは全くないだろうけれど。メモ。

リズム陣を中心としたファンクの感じを交えたプログレっぽさ確かにすばらしく心地よい。

キーボードのオーケストラで楽曲の響きにとても厚みがある。

多分この厚みは詞と節がぴったり一致してそれが曲の構造の核になっていることからもくる。

詞と節がそれぞれ別平面でレイヤーのように重なるだけでは平板なものになってしまう。

謡曲であることはとても大事で、そのことで楽曲だけの話では終わらなくなる。

技術が発達して仮想の音空間でいくらでもなんでも操作できるのかもしれないけれど、

詞と節がきちんと踊れないと空間は生まれない。   

詞と節は水晶の構造のようにその空間が壊れるときの亀裂・ヒビでもある構造。 

その時間上での進行によってその他の音のための空間を整然と切り開く。

CGのようにきちんとしたパースペクティブでどこまでも広々とした。のびのびとした。

そこへ各種のありとある物語、感情が、意味が、ひねくれながら流れ込む。

大量に流れ込む。落ち込む。

 

ところで、ずっといろいろな音楽を聴いてきたけれど。

最近まで読んでた「わたしたちの到来」のことも思いながら。

確率的なスマートな私は、完全に尊厳から乖離して怒りも悲しみも

いったいどこであるのやら摩訶不思議な孤独の中、利他と自我の

切り売りトレードオフで解かれて解散してしまいそう

前に、浦島太郎を上げながら文学のたたかい、物語のたたかいと

書いたけれど。イヤホンぶら下げながらこの一瞬にだけここに

なにかが住むと思った。

通学の電車でもウォークマンでイヤホンぶら下げてた。昔々。

 

繰り返すと、「わすれないで」よ・・・ といった詠唱に聞こえてくる。メタ感情メタメタ感情感情

ある感情に対する詠唱。感情についての感情。

「思い出して」よ・・・ 

 

この一瞬とは、イヤホンから流れ込むものとそれを受け止めるものの一瞬のこと。

音楽を聴いてるとき、何かが起きてる。何が起きているかということ。

私があって、音楽がある。イヤホンをつけた私は切り取られて部分になる。

部分に対する全体は実は存在しない。仮構のもの。

それではその部分は何してるか。

実在しない私を現実化してる。ツールとしての私ではなくて

実在としての私。そのとき私というのは、この私ではなくて

この私ということを可能とする私性のようなもの。

花によってはじめて現実化する花言葉としての情動のように。

この私だけでは私性を現実化できない。

言葉を覚えはじめた子どもが、ある情感をことばに置き換える。

そのときその情感はことばとは全く別物の個別の情感であるはずで

つまりその情感は「ある」けれど、現実化されていないはず。

逆に喃語が徐々に言葉へ生成されていくときに何が起こっているか。

情感も生成されている。

音楽はそんな風にしてこの私の私性をその都度現実化する。

生の手触りのありかを示す。

 

この私が解散しても私性は残る。私性が残っている限りこの私は

いつも蘇ることができる。  

 

 

  

       

通勤電車で繰り返しマリ=ジョゼ・モンザン「われわれ人間を誕生させるイメージ」を読んでいて、ディアファネースについての「「可視的なものそれ自体がもつ不可視で名前のない条件」」「「ところで、それ自身によって存在するものは言葉の仕業によってそうなるのではなく、即自的に可視性の原因を含んでいるからである。」」「イメージから立ち上がる声が与えようとするものを待つ、匿名の《ロゴス》の沈黙」…といったあたりを頭に馴染ませていると、ふとベンヤミンの「言語一般・・・」を思い出して本棚からぼろぼろのちくま文庫を取り出して持ち出した。電車で、つっ立って、隅々まで頭蓋が透明になりそうな強度ではじけ飛びそうになりながら読み始めている。泣きそうになる。叫びそうになる。

 

 

 

 

 

 

利き腕の右腕を骨折して病院ではじめに左手で問診表に「右腕骨折」と記入したとき。

小さな解答欄のハコに小さく文字を納めるために、慣れない(容量超過)指先から意図は氾濫して溢れて漏れて零れて派生して接ぎ木するように連鎖するそれを補う掌、手首、腕、肘、肩、首、腰までをくねらせながら所作を治めた。書くという所作を。

いまさっき、湯を張った鍋の中で踊る麺(スパゲティ)を見ていて改めてそのことを思い出していた。

ボールペンのペン先から肘肩腰を経由して足の親指の先までひとすじのものとなってまるで全身が文字に振り回されていたようなそのときを。

書くことというだけでなく、なにか加えてべつのことまでもしていたような記憶の感触がある。踊りとまでは言えないけれど。

 

 

 

 

 

ウィキペディアによると「ダークファンタジー・バトル漫画」とある。突然はまってしまって、アニメでフォローできなかった以後の話を単行本で買い揃えた。8巻から最新刊まで。

鬼ではなく呪い。だからヒューマニティよりより不完全な情感や感情について。人間の部分。

理性・尊厳と本能・呪いの概念対は面白いと思った(15巻)。

魁●塾もB●EA●Hも読んでいないのでわからないけれど、少年ジャンプは、バトル漫画において、歌舞伎や能のような型をミームとしようとしている。花言葉の花と言葉の関係のように、少年ジャンプは、少年読者(老若男女にとっての)を塑像し定義しようとしている。そこにおいて、作品の特異性が転がり出る。

マーク・フィッシャーの「わが人生の幽霊たち」の挿絵が印象的だった。呪●●戦では、9巻あたりから巻頭頁に呪われた今の今の今のアジェのような挿絵が差しはさまれている。互いに彷彿する。苦い毒のような味がしそうな光景。錆びた金属を舐めたときのような。

今週、日●新聞では、1面で「グ●ー●・リ●ッ●」との用語を冠する特集が3日に渡って連載された。いずれもその用語は定義は抜きで、救済の呪文のようにして文末に現れ出る。とてつもない違和感を感じた。日●新聞。

 

 

中井久夫さんは、どこかで、フーコーについて書いていた。最近「狂気の歴史」をきちんと購入して読み始めたら、なんとなくそのことを思い出した。

明晰の代償のようなもの。 

それを含みおいて、ということもある。含みおく。なんのためにか。

 

 

推奨されてはいないしするつもりもないけれど、酔っぱらった晩に、酔い覚ましにと家を出た。散歩。近所の市民グラウンドのベンチで買ったビールを飲んだ。暗闇を睨みつつ。

なんとなくそのときにコンビニのレジカウンターにあった少年ジャンプも購入していたのだった。

翌朝読んで、呪●廻●に魅かれた。