闇の自己啓発は佳境。

 

制作は系譜原理を断ち切るものと先に書いたけれど、

これは、ポイエーシスとプラクティスみたいなお話のようにも

思えるし、

エリオットの伝統の継承のお話にも思える。

つまりモダニズムのお話。

ただ「未来はここで終わる」という観点が要点になる。

逆さからも見たモダニズム

過去からも未来からも断ち切られる。

(ずれる 断層 蝶番がはずれる 時間=人間だった。)

いま。いーま。いまいま。いーまいま。まいまい。ま。

 

郝景芳短編集でも引用されていた

還魂記を思い出す。

わたしたちはすでに埋葬されつつある人形で

不定形の情(いつも発芽したばかりで摘み取られた)だけが遊離して

シュガーパウダーのように降り積もっている。

この世に。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

制作とは、系譜原理を切断すること。

しようとすること。

 

頭の後ろにカメラをつけて

右目で前を見て、左目で後ろを見る。

頭の上にカメラをつけて・・・

 

技術が発達していろいろシミュレーションできるようになったら

あとは、専門家も非専門家も慌てて未来(資本)を回収しないと

いけなくなる。

みな締め切り前のSF作家さんみたいな脳になってるのかな。

このいみでは、ユートピアディストピアも同じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20年前のドローイングが2点だけ生き残っている。

なぐりがきの「棒が一本」。

酩酊して歌も絵も別物になっていった。

 

描くとき使用するのは

描線をコントロールするのに使用するのは 

ちょうど折れていたあたりだった。

だいたいは手でなく、腕で描く。 

だからいまも疼く痛みや圧迫はずっと線を引く感触の持続と似ている

と気づいた。

 

気がそれてキーボードに指を置いたままたとえば

ああああああああああああああああああああああああ

となってしまうときの持続の感じ。

闇の自己啓発で紹介されていた映画監督を

うろ覚え(酔って)で検索すると間違えて

新藤兼人と検索していた。

するとなぜか「東京戦争戦後秘話」が出てきた。

音楽がかっこいいことは知っていたのでとりあえずこれを観た。

はじめ、とびきりすてきな錯乱の後

カメラを持った男が飛び降りて死んだ。

最後まで観れるかな。

トンネルに光が消えた。

音。

 

 

 

 

幻想と想像力

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

サルトルのまなざしのこと

他者と空間の生成(と植民地化→シミュレーショニズム)のことを

考えると、ペットならどうかなと思った。

ノラ猫でもいいのだけれど。

小鳥や魚ならこの部屋でも飼うことができそう。

なぜかバベル2世のような豊かな気持ちになった。

 

「物自体」を否定するということのイメージが湧かない。

どんな形でも空間(距離)がないと事後的にでも環世界を読めないし

神話も物語も読めない。

ブロックチェーンは空間(物自体)の不要に親和的なのかも

しれない。

でもそうなる(物語を失う)とすべてのミーム

エントロピー増大で眠りこけることになりはしないか。

いずれにせよそこにもヒトはいない。

 

ぬいぐるみとか。